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狐に騙され覚書

あぁこれ便利だなってことを忘れてもいいように覚書。主にプログラミング言語主体ですよ。

エンジニアは電気羊の夢をみるか?

『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』という本がある。
その世界では、ほとんど人と見分けの付かないアンドロイドが何人(何体)も登場する。 彼ら(作中ではそれらと呼ばれる)と人間との区別は、自分以外のものに感情移入できるか否かでなされる。 感情による非合理性が排除された世界において、もし人間の脳がエミュレートできるのであれば、社会全体の向かうべき方向というのも同様にエミュレートすることができて、その帰結として個人が生きる目的というのも定めることができるのだろうか。 つまり、自分は何のために生きるのかという経路を全て示すことができるのだろうか。

さて、2015年も残すところあと僅かとなりました。 僕の人生はおそらく連続的で、2015年にあった色々なことも結局は時間微分可能な1本の線でしかないわけですが、いくつかの変曲点は存在したと自覚しています。 変曲した因子は、物理的な相互作用を伴う外的な因子と、そうでない内的な因子(つまり思想的なもの)とが存在していました。

内的な因子について、評価ってなんだろうというところから始まりました。 社会に出て、自分以外の人から評価されるという状況には多々出くわしてきました。 社内評価、市場価値、自己評価……常に評価され続ける中で、その評価基準ともう一つの基準が同じ方向を向いていないなんてこともままありました。 例えば、市場価値は機械学習(ないしはAI技術)に関する修練を積めば飛躍的に上がることは市場を見れば明らかでしたが、それは僕が社内で評価基準を最大化する方向ではありません。 そんなことは、社会では当たり前のように存在していて、合成ベクトルが成す方向に対して進むのが最良の選択です。 ですが俯瞰してみれば、その評価基準というのはあくまでも局所的な部分空間での話でしかなくて、それを包含する空間ではまた別の評価空間が存在します。 考え出せばキリがなくて、どこかで上界を定めないことには哲学の檻に囚われてしまうばかりかと思います。

そもそも評価というのは何か目的を達成するための道標でしかなくて、お金持ちになりたいとか良い家住みたいというのが僕の人生の目的なのだろうか?というところに行き着きました。 そもそも目的関数が僕の意志と一致していないとわかって、じゃあ何を基準にするかは、とりあえず老衰でこの世を去る直前に、楽しい人生だったと思える生き方というのを定めようと。 世間では夢と言うのかもしれません。

幸いにして、盲目的に培っていた知識や技術は、目的を昇華するにはおよそ十分な基底を形成しています。 せっかくなので、2016年も変曲点たりうるように、楽しんで過ごしたいです。

なんか唐突に終わりますが、言いたいこと書ききったので終わりです。